折尾愛真学園は、増田孝によって1935年(昭和10年)折尾高等簿記学校として始まりました。
内村鑑三をとおしてキリスト教(聖書)の教えに感化された増田は、京都帝国大学(当時)卒業後、故郷の福岡県遠賀村に帰り、キリスト教に基づく精神教育と商業科を中心とした職業教育を目的とする学校をつくろうと考えました。増田は教育を、「新しい人間をつくることであってその根本は人格教育に置かれねばならない」と考えました。折尾には、高等学校としては、現在の東筑高校と遠賀高校があるだけでしたが、産業や工業地として発展の可能性を見てとり、この地を選びました。
開校当初は、理髪店の二階を仮校舎として借用しながら、認可を申請し、生徒募集を開始。友人の矢野光輝と増田の妹勝代が協力を申し出て、増田が学科を教え、矢野は助手、勝代は助手兼事務員という体勢でのスタートでした。2年目に専有の校地と校舎を持つという条件で、県より認可を得て、15名の男女の生徒が入学したのです。開校に際しては父には迷惑をかけないように、彼自身が学業の支援を受けた小倉の松本はな夫人から、必要な資金を借用できることになりました。
次の年には生徒の数は50名を越え、校地としては折尾の個人の所有地を無償で借用、次年度には買収しました。それと同時に新校舎の建設も始まり、1936年(昭和11年)には仮校舎から移転し、逐年生徒数も増加していきました。
1943年(昭和18年)〈折尾商業女学校〉と改称し、修業年限を3年に延長します。さらに翌年(昭和19年)11月には財団法人折尾女子商業学校として昇格し、修業年限を4年としました。
学校を女子学園とした理由について、女子は男子以上にこの世界に大きな影響を持つという意味で、増田は「ゆりかごを動かす手は世界を動かす」というウィリアム・ウォレスの詩句を引用しています。
当時、日本のミッションスクールは、その多くが設立や発展において、何かしらの形で外国の援助を受けていましたが、増田は自主独立の精神を大切にし、日本人による日本のためのミッションを貫きました。 |